Masuk月曜日の朝、神崎冬真はいつもより十分早く家を出た。
理由は単純だった。昨夜からSNSで「米がない」「パンが一人二袋までになった」「缶詰が急に売れている」といった投稿が増えていたからだ。
冬真自身、そうした書き込みを全面的に信用しているわけではない。目立つ写真だけが拡散されている可能性もあるし、一部の店で品切れが起きただけかもしれない。だが、母親の畑を実際に見て、斉藤の話を聞いた後では、以前のように「ネットが騒いでいるだけ」と簡単に切り捨てることができなくなっていた。
駅前へ向かう途中、まだ開店前のスーパーの前を通った。
人が並んでいた。
十人や二十人ではない。
ざっと見ただけでも五十人以上はいる。
大半は高齢者だったが、スーツ姿の会社員や、小さな子供を連れた女性も混ざっていた。
冬真は歩みを緩めた。
「何の列だよ」
入口には紙が貼られている。
『本日の米類の販売について。多くのお客様に商品をお求めいただけるよう、精米はお一人様一袋までとさせていただきます』
その下には、
『小麦粉、乾麺、即席麺、缶詰の一部商品についても購入点数を制限する場合がございます』
と書かれていた。
冬真は数秒立ち止まった。
まだ開店前だというのに、列の中ではすでに会話が飛び交っている。
「昨日来たら米なかったのよ」
「うちは孫がいるから十キロじゃ全然足りないの」
「来週になったらもっと上がるってテレビで言ってたでしょう」
「テレビは買い占めるなって言ってたよ」
「そう言われても、なくなってからじゃ遅いじゃない」
最後の言葉に、冬真は何となく引っかかった。
なくなってからでは遅い。
理屈としては正しい。
だからこそ厄介なのだ。
全員がそう考えれば、本当に棚から物がなくなる。
だから買わない方がいい。
しかし自分だけ買わず、本当に物が不足したら、その人間だけが困る。
善意だけで解決できる問題ではない。
冬真はその場を離れ、駅へ向かった。
電車の中でも、ニュースはそればかりだった。
昨夜、東欧の主要穀物輸出国の一つが、小麦輸出量を当面制限すると正式発表した。
国内の食料供給を安定させるため。
発表文には、そう書かれていた。
経済ニュースでは穀物価格が急騰したと報じている。
小麦。
トウモロコシ。
大豆。
飼料穀物。
冬真が普段ほとんど気にしたことのない商品が、軒並み値上がりしていた。
スマートフォンの画面を眺めていると、向かいに座る中年男性二人の会話が耳に入った。
「こういうのって結局、投機筋が騒いでるだけじゃないの?」
「どうだろうな。輸出制限は実際にやるって言ってるんだから、値段が上がるのは当然じゃないか」
「でも日本は備蓄あるだろ」
「米はあるかもしれないけど、小麦は輸入多いだろ」
「じゃあパン食わなきゃいいじゃん。米食えば」
「その米もみんな買ってるんだろ」
「じゃあ芋だな」
「その芋も寒さでやられてるってニュースでやってたぞ」
「何食えばいいんだよ」
二人とも笑った。
しかし、その笑いには数日前までの軽さがなかった。
会社に着くと、朝から会議室が埋まっていた。
海外事業部だけでなく営業、物流、購買部門まで集まっている。
冬真は席へ鞄を置くと、柴田からすぐに声をかけられた。
「神崎さん、朝のニュース見ました?」
「輸出制限だろ」
「それもですけど、うちの取引先が結構まずいみたいですよ」
「何が?」
「食品メーカーです。原料の納入価格が一気に変わったらしくて、製造計画を見直すって」
柴田はパソコン画面を見せた。
社内メールが並んでいる。
冷凍食品工場。
パン工場。
製麺会社。
食肉加工工場。
「これ全部?」
「今朝だけでこれです」
「設備の問題じゃないな」
「完全に原料ですよ」
冬真は椅子へ座り、内容を確認した。
ある製麺会社では、輸入小麦の価格上昇を受け、来月以降の生産計画を縮小する可能性があるという。
冷凍食品メーカーでは、野菜の仕入れ量が予定を下回り、商品構成を変更する。
食肉加工会社では、飼料価格の急騰を懸念している。
「飼料まで来るのか」
「トウモロコシとか大豆ですからね」
柴田が言った。
「人間が食べる分だけじゃないってことですよ」
冬真は頷いた。
考えてみれば当然だった。
牛も豚も鶏も食べる。
飼料が高くなれば肉も卵も牛乳も上がる。
食料というものが、思っていたよりずっと複雑につながっている。
「おはようございます」
佐倉が事務所へ入ってきた。
今日は紙袋を抱えている。
「何です、それ」
柴田が尋ねる。
「パンです」
「そんな大量に?」
「会社の近くのベーカリー、今日から値上げなんですよ。店員さんが『来月また上がるかもしれません』って言うから、冷凍できる分だけ買ってきました」
「佐倉さんまで買いだめですか」
「買いだめじゃないです。一週間で食べる量です」
「その言い方、スーパーに並んでる人たちも全員言いそう」
「柴田さんは余裕ですね。何も買ってないんですか?」
「俺、米十五キロありますよ」
「何でそんなにあるんです?」
「実家から送ってきたんです。親父が『都会は食い物なくなるぞ』って」
「地方の親、強いな」
冬真が笑うと、柴田も笑った。
「親父、普段はネット通販すら信用しないくせに、こういう時だけ情報早いんですよ」
「どこから聞いたんだよ」
「農協の知り合いがいるとかで。『今年は農家も読めないって言ってるから、米くらい持っとけ』って」
佐倉が真顔になる。
「それ、本当にまずくないですか?」
「何がです?」
「農家の人が分からないっていうのが」
柴田は少し黙った。
「……まあ、気持ち悪いですよね」
数日前までなら、「考えすぎですよ」と笑っていただろう。
その言葉を言わなくなった。
朝礼では、高木課長がいつもより長く話した。
「まず、今日から食品関連の顧客対応を優先する。海外だけじゃない。国内でも生産計画変更が増えている。設備を止める、稼働時間を短縮する、逆に保管設備を長時間動かしたいという相談もある。顧客によって状況が真逆だから、思い込みで対応するな」
営業部の社員が質問した。
「保管設備を増やしたいっていうのは?」
「原料を確保できた時点で、普段より長く持ちたいという会社が増えてる。特に冷凍、低温倉庫だ」
「要するに在庫を多く持ちたい?」
「そういうことだ」
高木は少し間を置いた。
「ただし、必要以上に騒ぐな。会社としては通常業務を続ける。政府も今朝の会見で、国内の食料供給に直ちに大きな影響はないとしている」
その言葉に、冬真は少し眉を動かした。
直ちに。
また出た。
柴田も同じことを思ったらしく、朝礼が終わると小声で言った。
「最近、『直ちに』って言葉多くないです?」
「俺も思った」
「『問題ありません』じゃ駄目なんですかね」
「問題が起きる可能性はあるんじゃないか」
「怖いこと言いますね」
「言葉の意味としてはそうだろ。今日明日は大丈夫でも、来月は分からないってことじゃないのか」
柴田は少し顔をしかめた。
「神崎さん、最近ちょっと悲観的になってません?」
「そう見えるか?」
「前はもっと『どうにかなるだろ』って人だった気がします」
「今もどうにかなるとは思ってるよ」
「じゃあいいですけど」
冬真は自分でも少し変わったと思っていた。
世界が終わるなどとは思っていない。
大飢饉が来るとも思いたくない。
ただ、「何も起きない」という前提だけで行動するのが、以前より怖くなった。
午前十時過ぎ、緊急のオンライン会議が始まった。
アメリカの食品倉庫運営会社。
日本側。
設備メーカー。
通訳を介して話が進む。
画面の向こうに映るアメリカ人の男性は、明らかに疲れていた。
『倉庫の稼働を四割まで落とします』
通訳が訳す。
「四割?」
日本側の担当者が確認した。
『契約農場からの搬入予定が大幅に下がりました。ただし、状況が改善した場合に備えて設備は止めません』
「作物被害はそこまで深刻なんですか」
画面の男が少し黙った。
『地域によります。しかし我々の周辺では、農家が植え直しを始めています』
「それなら収穫は可能では?」
男は首を横に振った。
『可能です。気温が戻れば』
会議室が静かになった。
誰もすぐには言葉を続けなかった。
『問題は、来週も低温予報が出ていることです。農家は賭けをしている。今種をまくか、待つか。どちらを選んでもリスクがあります』
「政府の支援は?」
『当然あります。しかし支援金は食料ではありません』
冬真はその言葉に、斉藤を思い出した。
保険金をもらえば野菜が生えてくるわけではない。
日本でもアメリカでも、結局同じだった。
会議の最後、現地担当者が少し迷うようにして付け加えた。
『個人的な話ですが、皆さんも少し食料を家に置いておいた方がいいかもしれません』
日本側の参加者が笑った。
「そこまでですか?」
相手は笑わなかった。
『私は昨日、スーパーを四軒回りました。小麦粉は買えませんでした』
会議が終わってからも、その言葉が冬真の頭に残った。
昼休み。
社員食堂の入口に紙が貼られていた。
『食材価格高騰のため、一部メニューを変更しております』
今日の定食から卵料理が消えている。
「とうとう社員食堂まで来たな」
柴田が言った。
「昨日スーパー行ったら、卵十個で七百円近かったですよ」
佐倉が答える。
「七百円?」
「高いやつじゃなくて普通のですよ。買うのやめました」
「鶏飼った方が安いんじゃないですか」
「都会のマンションでどうやって飼うんですか」
「ベランダ」
「管理会社に殺されます」
「鶏じゃなくて柴田さんが?」
「何で俺が殺されるんですか」
笑い声が上がる。
まだ笑える。
それでも、昨日と同じ会話ではなかった。
食べ物の値段の話が、会社の雑談の中心になり始めている。
午後二時。
冬真のスマートフォンに陽菜からメッセージが届いた。
『お兄ちゃん、ニュース見た?』
『何』
『もう一か国、小麦輸出止めるって』
冬真はニュースアプリを開いた。
今度は別の国だった。
前日の国は「制限」だったが、こちらは一部品目について「一時停止」と明記されている。
記事には、
『国内供給安定を最優先するため』
と書かれていた。
直後、陽菜から電話が来た。
「仕事中だぞ」
『知ってるけど、ちょっとだけ』
「どうした」
『私の会社の子、家でパン屋やってるんだけどさ、小麦粉の問屋から値段上げるって連絡来たらしいよ』
「もう?」
『うん。しかも量を確保できるか分からないって』
「国産小麦使えばいいんじゃないのか」
『それも聞いたけど、国産だって量少ないし、みんな同じこと考えたら足りないって』
「まあ、そうなるか」
『お兄ちゃん』
「何?」
『私、もう少し食料買っておいた方がいいかな』
冬真は答えに迷った。
何日か前なら、「買い占めるな」と言っていた。
今でも、その考え自体は変わっていない。
「必要以上には買うな」
『うん』
「でも、一週間分しかないなら、もう少し余裕あってもいいかもしれない」
『二週間くらい?』
「そのくらいなら普通の備蓄だろ」
『分かった』
「水も少し置いとけよ」
『何で水? 水道止まる話までしてないでしょ』
「地震対策と同じだ。どうせ腐らない」
『お兄ちゃん、完全に防災おじさんになってきたね』
「二十四歳におじさん扱いされるほど歳取ってない」
『三十二でしょ』
「八歳しか違わないだろ」
『八歳は大きいよ』
「もう切るぞ」
『はいはい。ありがとう』
電話が切れた。
最後の「ありがとう」が少しだけ真面目だった。
午後三時半、政府の緊急会見が始まった。
会社の大型モニターにも映像が流れる。
担当大臣が壇上に立っていた。
『一部の国で穀物輸出制限の動きがございますが、現時点において、我が国の食料供給に直ちに重大な支障が生じる状況ではありません』
社員たちは仕事をしながら聞いている。
『米については国内備蓄も確保されております。また小麦などについても輸入先の多角化を進めており、必要に応じて適切な対策を講じてまいります』
記者が質問する。
『スーパーでは米や小麦粉の品切れが相次いでいます。政府は国民にどのような対応を求めますか』
『必要以上の買いだめは、かえって流通の混乱を招きます。国民の皆様には、通常通りの購買行動をお願いしたいと考えております』
『この寒冷化が長期化した場合でも、食料供給に問題はありませんか』
大臣の表情がわずかに固まった。
『仮定の質問についてはお答えを差し控えますが、政府として様々な事態を想定し対応しております』
柴田が冬真の隣で小さく呟いた。
「答えてないですね」
「そうだな」
「長期化したらどうなるかって聞いてるのに」
「分からないんじゃないか」
「政府でも?」
「未来の天気くらい政府にも分からないだろ」
「まあ、そうですけど」
冬真はモニターを見ていた。
大臣を責める気にはなれなかった。
大丈夫だと言えば、後で問題が起きたとき責任を問われる。
危ないと言えば、今日のうちにスーパーへ人が殺到する。
何を言っても問題になる。
政府もまた、答えのない質問に答えなければならない立場なのだろう。
仕事を終えた冬真は、帰りにスーパーへ寄った。
朝の店ではない。
少し離れた大型スーパーだった。
入口に警備員が立っている。
店内へ入った瞬間、普段とは違う空気を感じた。
客が多い。
買い物かごではなく、大型カートを使っている人が目立つ。
まず米売り場へ向かった。
棚の半分以上が空だった。
『お一人様一袋まで』
大きな紙が貼られている。
残っているのは五キロ袋が数種類。
十キロ袋はない。
冬真は一袋手に取った。
買うか迷った。
自宅にはまだ米がある。
ここで買えば、本当に必要な誰かの分が減るかもしれない。
その横で高齢の夫婦が話している。
「一袋しか駄目だって」
「じゃあ私とあなたで一袋ずつ買えばいいでしょう」
「一家族一袋って書いてあるぞ」
「店員に夫婦だって言わなきゃ分からないわよ」
「そんなことまでして買わなくてもいいだろ」
「なくなってから文句言わないでよ」
「そんなになくならないって」
「あなたは毎回そう言うのよ。台風のときだって水買わなくて困ったでしょう」
「それは一日だっただろ」
「今回は何日か分からないじゃない」
夫は黙った。
冬真は米袋を棚へ戻した。
今日は買わない。
まだ家にある。
次に小麦粉売り場。
ほぼ空だった。
残っているのは製菓用の小袋と、高価格帯の商品だけ。
乾麺も少ない。
即席麺には、
『お一人様三点まで』
の札。
缶詰売り場も、サバ缶、ツナ缶、コーン缶など保存の利く商品が減っている。
客同士が小声で話している。
「何買っといた方がいい?」
「パスタじゃない?」
「でもソースもいるでしょう」
「塩だけでも食べられるよ」
「米は?」
「もうなかった」
「朝来ればあるかな」
「分からない」
冬真は自分が何を買いに来たのか一瞬分からなくなった。
何となく寄っただけだった。
不安だから。
それ自体が、買い占めを生む心理なのだろう。
「落ち着け」
小さく呟いた。
必要なものだけ買う。
ジャガイモ。
玉ねぎ。
少量の肉。
牛乳。
冷凍食品を少し。
それだけにした。
レジへ向かう途中、保存水の棚が目に入った。
ほとんどない。
そこで、三十代くらいの男性と店員が揉めていた。
「何で水まで一箱なんだよ」
「申し訳ございません。購入が集中しておりまして」
「水道止まってないだろ」
「はい。ただ、防災用として購入されるお客様が増えておりますので」
「じゃあ売ればいいじゃん。金払うんだから」
「ほかのお客様にもお求めいただけるよう、一世帯一箱とさせていただいております」
男性は苛立った顔をする。
「俺、子供三人いるんだよ。一箱じゃ足りないだろ」
店員は答えに詰まった。
「申し訳ございません」
「謝ればいいってもんじゃないだろ」
冬真は通り過ぎた。
どちらが悪いとも思えなかった。
店員には店のルールがある。
男には家族がいる。
同じ一箱でも、一人暮らしと五人家族では意味が違う。
公平とは何なのか。
そんなことを考える日が来るとは思わなかった。
レジ待ちの列は長かった。
前に並ぶ女性のカートには、米、乾麺、缶詰、冷凍食品が積まれている。
後ろの男性はそれを見て、露骨に舌打ちした。
女性が振り返る。
「何ですか?」
「いや、別に」
「何か言いたいなら言ってください」
「買いすぎじゃないですかって思っただけですよ」
女性の顔が険しくなる。
「うち家族六人なんです。これでも一週間分ですけど」
「みんな家族いますよ」
「だから何ですか?」
レジの店員が困った顔でこちらを見る。
冬真は間に入る気にはならなかった。
誰も悪人ではない。
だからこそ面倒だった。
女性は苛立ちながら前を向いた。
男性も黙る。
数分後には何事もなかったように会計が進んだ。
まだ、その程度だった。
殴り合いにはならない。
商品を奪い合う人もいない。
警察も必要ない。
けれど人間同士の間に、これまでなかった警戒心が生まれ始めている。
帰宅すると、母親から電話が来た。
「もしもし」
『ニュース見た?』
「輸出停止だろ」
『そう。それで近所のスーパー、米が一人一袋になったって』
「こっちもだよ」
『あんた家にある?』
「ある」
『本当に?』
「母さんと同じこと聞くなよ。陽菜にも言われた」
『あの子も心配してるんだよ』
「陽菜が?」
『夕方電話してきたよ。「お兄ちゃん、ちゃんと食べ物あるかな」って』
冬真は少し意外だった。
「本人からそんなこと言われてない」
『言わないでしょうね。兄妹ってそういうもんだよ』
「何だよ、それ」
『素直じゃないってこと』
「母さんにだけは言われたくない」
『私は素直だよ』
「どこが」
『あんたたちのこと心配してるって、ちゃんと言ってるでしょう』
冬真は返事をしなかった。
春江が続ける。
『斉藤さん、今日また畑見たけど、レタスかなり駄目みたいだよ』
「そうか」
『出荷できる分だけ早めに出すって言ってた』
「まだ育ち切ってないんじゃないのか」
『そう。でも今後もっと悪くなるくらいなら、多少小さくても出せるうちに出すんだって』
冬真はスーパーの野菜棚を思い出した。
「それで足りるのかな」
『何が?』
「いや、何でもない」
電話を切った後、テレビをつける。
夜のニュースでは、輸出停止を巡る各国の反応を扱っていた。
『今回の措置について、国際機関は各国に過度な輸出規制を避けるよう求めています。輸出制限が連鎖した場合、食料価格のさらなる高騰を招く恐れがあります』
画面には世界地図が表示された。
一つの国が止める。
すると輸入していた国が別の国から買う。
その国の価格が上がる。
国内で不足を恐れた政府が、今度は自国の輸出を止める。
連鎖。
冬真にも、構造が少しずつ見えてきた。
ニュースキャスターが続ける。
『政府は改めて、国内の食料供給に直ちに問題はないとして、冷静な購買行動を呼びかけています』
冬真はソファにもたれた。
「直ちに、か」
独り言が漏れた。
冷蔵庫を開ける。
食べ物はある。
米もある。
水道も出る。
電気もつく。
今日生きるには何も困らない。
それでも昨日までとは違う。
スーパーに行けば何でも買えるという感覚が、少しずつ崩れていた。
冬真はスマートフォンを取り、陽菜へメッセージを送った。
『食料、二週間分くらいは持っとけ』
すぐ返信が来る。
『お兄ちゃんもね』
冬真は少し笑った。
『分かってる』
送信してから、ふと思った。
二週間。
なぜ二週間なのか。
根拠などない。
一週間より安心だから。
一か月では買いすぎだと思うから。
それだけだった。
明日、気温が戻れば何もかも笑い話になるかもしれない。
輸出制限も解除される。
農家は植え直し、スーパーの棚は埋まり、ニュースは別の話題へ移る。
冬真はまだ、そうなる可能性の方が高いと思っていた。
その夜十一時四十分。
新たな速報が流れた。
『穀物輸出国三か国、国内供給確保を理由に輸出規制を検討』
昨日は一か国だった。
今日、一か国が加わった。
そして明日には、さらに三か国が続こうとしていた。
世界はまだ飢えていない。
ただ、それぞれの国が自分の国民を守ろうとした結果、食料を外国へ出さなくなり始めていた。
誰も悪くなかった。
だからこそ、この流れを止めるのは難しかった。
第14話 買い占めが飢饉を早める 東雲征一郎の動画が公開された翌朝、神崎冬真が自宅近くのスーパーへ着いた時には、保存食品の棚の半分以上が空になっていた。 まだ午前九時半にもなっていない。 開店から三十分ほどしか経っていないはずだった。 缶詰。 乾麺。 パスタ。 レトルト食品。 乾燥豆。 粉末スープ。 長期保存パン。 売り場によって差はあるものの、普段なら一日かけてもなくならない量の商品が、一気に消えている。「早すぎるだろ……」 冬真は買い物かごを持ったまま立ち止まった。 店内には普段より明らかに多くの客がいる。 大型カートを使っている人が目立つ。 中には缶詰を何十個も積んでいる人もいた。 その横を、店員が大きな紙を持って走っていく。『保存食品は一商品につきお一人様三点まで』 貼り紙を見た瞬間、近くの客から不満の声が上がった。「三つだけ?」「家族五人いるんだけど」「同じ種類が三つってことですよね?」「違う味ならいいの?」 店員が説明する。「同一商品につき三点までとなります。例えばサバ味噌缶三点、サバ水煮缶三点という形になります」 それを聞いた中年女性が、すぐ棚へ戻った。「じゃあ種類変えればいいのね」 冬真はその背中を見た。 ルールというものは、作った瞬間から抜け道を探される。 悪意とは限らない。 家族のために少しでも多く確保したい。 ただそれだけなのだろう。
第13話 三か月後、食べ物がなくなる 七月五日の朝、神崎冬真は電車の中で、一枚の給食写真を見ていた。 SNSで急速に拡散されている、小学校の給食を撮影した写真だった。 白いご飯が小さな茶碗に半分ほど。 具の少ない味噌汁。 煮豆。 漬物。 それだけだった。 投稿者の説明によれば、以前は魚や肉のおかず、牛乳、デザートまでついていたという。食材調達が難しくなったため、一時的に献立を変更したらしい。 写真の真偽を冬真が確認できるわけではない。 だが、似たような報告は一件ではなかった。 別の学校では牛乳が週二回に減った。 別の自治体ではパン給食を中止し、備蓄米を使用した米飯へ切り替えた。 肉類の使用回数を減らした自治体もある。 卵を使用する献立が消えたという書き込みもあった。「子供から先に減らすわけじゃないんだろうけどな……」 冬真はスマートフォンを閉じた。 自治体だって、好きで給食を減らしているわけではない。 決められた予算がある。 その中で食材価格だけが二倍、三倍になれば、今までと同じ献立を維持できるはずがない。 それでも、子供の皿が小さくなる写真は、大人向けの商品が値上がりするニュースよりずっと胸に刺さった。 向かいの席には、小学生くらいの男の子と母親が座っていた。「今日も給食、少ないかな」 男の子が言う。 母親はスマートフォンを見ながら答えた。「どうだろうね。でも朝ちゃんと食べたでしょう」「お昼までお腹すくよ」「帰ってきたら何か作るから」「唐揚げがいい」
第12話 肉が高級品になった日 七月四日の朝、神崎冬真は冷蔵庫を開けたまま、しばらく豚肉のパックを見つめていた。 昨日買ったばかりの切り落とし肉だった。特売でも高級品でもない、ごく普通の国産豚肉である。それなのに値札には、以前なら少し良い焼き肉用の肉でも買えそうな金額が印字されていた。「百グラム三百八十九円……」 記憶違いでなければ、数週間前までは二百円前後だったはずだ。 牛肉なら分からなくもない。 だが豚肉までこの値段なのか。 冷蔵庫の奥にある卵にも目を向ける。 十個入りで八百円近くした。高すぎると思いながらも、最後の一パックだったので買ってしまったものだ。 牛乳も一本三百円を超えている。 食パンも高い。 冷凍食品も高い。 今までは野菜だけだった。 その次に米。 そして小麦粉。 気づけば、食卓のほとんど全てが値上がりしている。 冬真は豚肉を冷蔵庫へ戻した。「朝から肉食うの、もったいないな」 口に出した瞬間、自分で嫌になった。 以前なら、肉を一食分使うのに「もったいない」などと考えなかった。 食べるために買ったものなのだから、食べればいい。 それが当たり前だった。 だが今は、その一パックを今日使ってしまったら、次に同じ値段で買えるか分からない。 もっと高くなるかもしれない。 そもそも売っていないかもしれない。 そう考えてしまう。 結局、朝食は米と味噌汁、梅干しだけにした。 母親から持たされた梅干しを一つ箸で割りながら、冬真はテレビをつけた。 朝のニュースでは、畜産
第11話 備蓄米が来た日 七月三日の朝、神崎冬真が目を覚まして最初に確認したのは天気ではなく、政府の備蓄米放出に関するニュースだった。 数日前までなら、起床後に見るものといえば時刻と電車の運行情報くらいだった。ところが今では気温、降雪、道路状況、食料価格、燃料供給、穀物輸出規制まで確認してからでなければ、一日を始める気になれない。 習慣というものは恐ろしい。 世界が変われば、人間の「普通」も驚くほど早く変わる。 テレビでは朝六時台から、政府備蓄米を積んだ大型トラックが倉庫から出発する映像を繰り返し流していた。『政府は本日より、第一弾としておよそ二十万トンの備蓄米を市場へ放出します。大手卸売業者を通じ、順次全国の小売店へ供給される予定です』 画面の中では、巨大な倉庫からパレット単位で積み出される米袋が映っている。 冬真はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。「二十万トンって、多いのか少ないのか分からないな」 数字が大きすぎる。 一人暮らしの人間にとって米五キロなら感覚で分かる。 十キロなら一か月以上持つ。 だが二十万トンと言われても、それが日本全体で何日分なのか、冬真には実感できなかった。 番組には食料経済の専門家が出演していた。『今回の放出量だけを見れば、直ちに米が尽きるような状況ではありません。むしろ重要なのは流通です。備蓄米は国が保管しているだけでは消費者の食卓に届きません。精米、袋詰め、輸送、小売店への配送という工程が必要です』 司会者が質問する。『つまり、備蓄が十分あってもスーパーでは品切れが続く場合がある?』『当然あります。現在は道路状況の悪化や燃料問題によって物流能力そのものが低下しています。食料の量だけではなく、それを動かす能力も考えなくてはいけません』 冬真はコーヒーカップを置いた。
第10話 政府緊急会見 七月二日の朝、東京の雪はまだ完全には消えていなかった。 大通りでは除雪車が走り、駅前には踏み固められた雪が黒く汚れて残っている。道路の中央こそ車が通れる程度には回復していたが、歩道には凍結した箇所が多く、転倒して救急搬送される人が相次いでいると朝のニュースが伝えていた。 神崎冬真は窓辺に立ち、昨夜より少し薄くなった雪景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。 テレビでは、午前九時から政府が緊急記者会見を開くと繰り返し告知している。『政府は昨日から関係省庁による対策会議を続けており、食料供給、電力、燃料、交通網、農業被害などについて総合的な対応方針を発表する予定です』 冬真はカップを置いた。 午前九時。 いつもなら会社にいる時間だ。 だが今日は、高木課長から「午前中は自宅待機」と連絡が来ていた。鉄道は一部復旧したものの、運行本数が少なく、会社側も現場対応要員以外の出勤を抑えている。 昨日まで「通常勤務」を維持しようとしていた会社が、一日で方針を変えた。 それだけでも事態の深刻さが伝わってきた。 スマートフォンが震える。 柴田から社内チャットだった。『神崎さん、生きてます?』『生きてる』『うち子供大喜びです。庭で雪だるま作ってます』『元気だな』『嫁は泣きそうな顔してますけどね』 冬真は少し眉をひそめた。『何かあった?』『スーパー昨日から閉まってるんですよ。道路凍って配送来てないみたいで』『食料あるのか』『今のところは。親父が送ってきた米十五キロが神に見えます』『大事に食え』『そうします』 少しして、柴田からもう一通来た。
第9話 東京、七月、雪 六月十二日の朝、神崎冬真はカーテンを開けたまま、しばらく窓の前から動けなかった。 昨夜の天気予報では、早朝に霙が混じる可能性があるとは言っていた。 それでも積もるとは聞いていない。 向かいのマンションの屋根が白い。 歩道の植え込みにも薄く雪が乗り、道路脇に停められている車の屋根は、まるで冬の朝のように白くなっていた。 さすがに路面までは積もっていない。アスファルトに落ちた雪は水に変わり、排水溝へ流れている。 それでも六月十二日だった。 冬真はスマートフォンを手に取り、外を一枚撮った。 撮ってから、自分が何のために写真を残したのか分からなくなった。「陽菜にでも送るか」 メッセージアプリを開くより先に、陽菜から写真が送られてきた。『こっちも白い。笑えないんだけど』 冬真は自分の写真も送った。『同じだ』 すぐ電話がかかってくる。『お兄ちゃん、今日会社行く?』「行くよ」『普通に?』「電車動いてるからな」『テレビ、不要不急の外出控えろって言ってるよ』「それ、大雪の地域だろ。東京はこの程度なら問題ない」『この程度って、六月に雪積もってるんだけど』「季節の話と交通の話は別だろ」『会社員って怖いね』「お前は?」『うち、午前中在宅になった。午後は状況見て判断だって』「いい会社じゃないか」『こういう時だけね。普段は編集修正、夜中でも飛んでくるけど』「在宅でも仕事は仕事だろ」『そういう正論、朝からいらない』 冬真は少し